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高森明勅
2021.2.12 06:00皇室

「建国記念の日」3つの視点(2)

②2月11日「紀元節」制定の直接のきっかけは、明治初め頃の旧暦
(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への改暦だった。
この改暦に伴い、紀元を立てることが決まり、古代から用いられて
来た神武天皇のご即位を紀元とすること(皇紀)が、
改めて制度化された(明治5年11月)。

その時に、併せて神武天皇の即位日に当たる日を「祝日」
とすることが決まった。
但し、当初は旧暦の日付を新暦に当て嵌(は)めただけだった
(同6年1月19日。「紀元節」という名称が決まるのは、
これより後の同年3月7日)。
それだと、毎年、日付が変わってしまう。
なので、改めて『日本書紀』の記述に従って2500年余り前に遡り、
同書に神武天皇のご即位の日付を「辛酉年(かのととりのとし)
春正月(はるむつき)庚辰(かのえたつの)朔(ついたちのひ)」
としているのを、「2月11日」と決定した(同10月14日)。

太陽暦の採用は、明らかに当時の文明開化=近代化・西洋化の
方向に沿うものだったはずで、紀元を制度化するという着想自体も、
欧米各国が紀元を用いている実情に触発された可能性が指摘されている。
にも拘(かかわ)らず、実際に採用されたのは西暦(キリスト教暦)
ではなく、日本独自の「皇紀」だった。

更に、神武天皇の建国を顧みる意識も一層、高まっている。
これらは、その頃の日本人が、決して没主体的な欧化一辺倒では
なかっ事実を示していて、興味深い。
そもそも、明治維新の“原点”と言うべき「王政復古の大号令」
(慶応3年12月9日)には「諸事、神武創業の始(はじめ)に
原(もと)づき(全て神武天皇が日本の国を建てられた当初に立脚して…)」
とあった。

これから未曾有の大変革を断行するに当たり、
悪(あ)しき前例主義を断ち切って、旧弊をことごとく排除する姿勢を
明確にされたのだ。
徹底した変革を構想する場合、依拠すべき基準は、「神武創業」以外
に無かった。

古代を顧みると、古代統一国家形成への本格的なスタートと
言うべき大化の改新の際や、同統一国家の確立を導いた壬申の乱の
最中に、神武天皇への回想が表面化していた(『日本書紀』大化3年
〔647年〕4月26日条、天武天皇元年〔672年〕7月条)。

それらの事実と照らし合わせ、大胆に近代統一国家の建設を
進めた明治維新において、神武天皇の建国が身近に感じられたのも、
不思議ではない。

明治の先人は、自分たちの“功業”を後世に遺(のこ)す
維新記念日は作らないで、自分たちの“理想”を託して紀元節を
制定した、と見ることが出来る。
維新の諸変革を総括する意味を持った明治の皇室典範と
帝国憲法が共に、明治22年の紀元節当日に制定された事実を、
重く受け止める必要がある(翌年4月には神武天皇を祀〔まつ〕る
橿原〔かしはら〕神宮も創建された)。
紀元節は明治維新の理想が託された祝日だった。(続く)

【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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